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八幡氏への忠告② 人生経験は歴史研究に益するか

呉座 勇一

前回に引き続き、八幡和郎氏の反論に回答する。

日文研サイト、BS朝日サイトより:編集部

人生経験は歴史研究に益するか

八幡氏は

呉座さんが分かってないと思うのは、自分が文献資料の分析だけのプロだということだ。だから、資料の発見とか整理や評価はプロのはずだが、解釈能力があるかどうかは別だ。解釈は森羅万象についての知識、推理能力、人生経験などがものをいうから、文献史家がプロとしての優位性をもっているとは言い切れない

と述べる。

こういう誤解をしている歴史愛好家は非常に多い。私が大学院生の頃、定年退職して大学の聴講生として日本史学研究室に出入りしている方がいた。その人は「歴史なんてものは若い人には分からない。人生経験を積んでこそ分かるのだ」と主張されていた。だがもちろん、大学院生の方がその方より史料が読めるし知識もあるので、みんなで色々と指導するのだが、自分の息子や娘より年下の若造たちに指図されるのが癪に障ったようで、そのうち姿を見せなくなった。

当時の私は「困ったお年寄りだな」と思っていた。けれども今にして思うと、その方は自己流の独学ではなく大学でしっかり歴史学を学ぼうという意欲を持っていたわけだから、歴史学の初歩すら学ぼうともしない八幡氏よりは立派である。

史学概論などで歴史学の学生が最初に学ぶことは、「私たちは過去を直接体験することができないから、史料という媒介物を通じて過去に迫るしかない」ということである。すなわち「史料のないところに歴史はない」のである。ゆえに史料の発見・整理・解釈の技法が歴史学の根幹をなしている。

八幡氏は史料解釈には人生経験がものを言うと主張するが、神戸大学教授の木村幹氏も指摘するように、人生経験などという主観的なものに基づいて分析していたら、客観性・再現性が担保できず、学問として成立しない。


八幡氏の人生経験は八幡氏だけのものであり、他の人は継承できないからだ。仮に八幡氏の深い人生経験に基づく歴史解釈が正しかったとして、八幡氏が亡くなった後、私たちはどうやって歴史研究を進めれば良いのか。次の「天才」が現れることをお祈りでもするのだろうか

歴史学者が方法論をうるさく言うのは、方法論を正しく身につければ、誰でも一定の研究成果を出せるからである。八幡氏は(アゴラ記事にはさすがに書いていないが)ご自分のfacebookには「たかが助教の分際で歴史学界を代表するな」と書いておられる。

だが大御所・長老の研究であっても、正しい研究手法に基づいて批判すれば覆すことも可能という平等性こそが、学問の本質である。八幡氏は私に「歴史学界の古い体質と戦え」と注文をつけるが、「年長で人生経験が豊富な自分の方が、史料が読めるだけの若造よりも歴史が分かる」「助教ごときが教授の私を批判するなど許せない」というドグマの方がよほど権威主義的ではないか。

そもそも歴史を明らかにするという営為は、「他者」を理解しようという試みである。もし人生経験で歴史が分かるなら、わざわざ歴史なんて学ぶ必要はない。一人の人間が一生で経験できることなんて多寡が知れているからこそ、私たちは本を読み、歴史を学ぶのである。

人生経験に基づいて歴史を読み解くと言えば聞こえは良いが、所詮自分の価値観を過去に投影し、自分の主義主張を歴史によって正当化することにしかならない。要するに「他者」ではなくて「自分の鏡像」を見ているだけだ。「私が織田信長だったら、こう判断する」などというヨタ話に価値があろうはずがない。

人生経験を誇る前にすべきこと

八幡氏は拙著『陰謀の日本中世史』(KADOKAWA)に関しても否定的な感想を述べておられる。拙著あとがきでも記したように、私は拙著で示した仮説に絶対の自信を持っているわけではないので(そもそも拙著は先行学説の紹介と整理に重きを置いている)、批判は大いに歓迎する。付け足り的に嫌味を書く今回の記事のようなものではなく、ぜひきちんとした書評の体裁で批判していただきたい。

それにしても、歴史学界の権威主義をあれだけ批判してきた八幡氏が、「東京大学教授の本郷和人氏が呉座を批判しているので、呉座の見解が正しいとは言えない」という権威主義丸出しの主張をしてくるとは思わなかった。

もし八幡氏が拙著を書評して下さる場合は、ぜひ歴史学者の権威に頼る評論家スタイルではなく、御自身の責任で批判していただきたい。なお拙著『応仁の乱』(中公新書)に対する本郷和人氏の批判に対しては、某雑誌で反論する予定である。ご興味がおありならば、そちらもお読みいただきたい。

ところで八幡氏は、私が「人格攻撃を含む罵詈雑言」を行っていると批判する。そもそも私が八幡氏とやりとりをすることになった発端が、「呉座は私の見解を盗用した」と八幡氏が誹謗中傷したことにあるという事実をお忘れなのだろうか。

官僚、あるいは作家の世界のルールは良く知らないが、学者に対して根拠もなく盗用の疑いをかける以上の侮辱は存在しない。私怨に基づいて八幡氏を批判していると誤解されると困るので今まで黙ってきたが、盗用の言いがかりの件は後で「あれは冗談だった」で済む話ではない。人生経験豊富な大人だというのなら、この問題につき私に対して明確に謝罪すべきだ。

【呉座勇一×八幡和郎④】「盗用の言い掛かりをつけたが、それは冗談で、非難しているわけではない」と新たに主張(論壇Net)

他人の品格をうんぬんする前に、まずは御自身が年齢・経験にふさわしい言動をするよう心がけてはいかがだろうか。これが私からの最後の忠告である。